フィリピン人の場合  

1998年末現在における外国人登録者は、151万2116人で過去最高を記録している。この数は、前年末に比べると約3万人(2%)増、10年前の1988年末と比べると実に57万人(60%)も増加している。また、日本の総人口に占める外国人の割合は1998年末現在で1.20%にあたり、100人に1人が外国籍であることを示している。日本の総人口と外国人登録者数の伸び率を10年前と比較してみると、日本の総人口の伸び率は3.0%、外国人登録者数の伸び率はそれより遙かに高い60.7%となっており、外国人の日本への流入の急増を端的に表すものとなっている。

国籍(出身地)別に登録者をみると、韓国・朝鮮籍が64万人(42%)、次いで中国籍27万人(18%)、ブラジル22万人(15%)、フィリピン10万5000人(7%)となっている。

在留資格別にみると、特別永住者が53万人(うち韓国・朝鮮籍52万8000人)、日本人の配偶者等が26万人(うち中国籍4万6000人、韓国・朝鮮籍2万人、フィリピン4万5000人)、定住者が21万人(うち中国4万人、韓国・朝鮮籍1万人、フィリピン8000人)、永住者は9万人(うち中国籍3万人、韓国・朝鮮籍2万6000人、フィリピン1万人)、興行が3万人(うちフィリピン2万5000人)となっている。

次章以下の事例研究で焦点を当てるフィリピン国籍者は、前述の通り、現在10万5000人が外国人登録をしている。そのうち日本人の配偶者等が4万5000人、興行が2万5000人、定住者が1万人、永住者が8000人という内訳になっている。フィリピン国籍者の傾向として、日本人と結婚して在留資格を得ているか、または興行ビザでエンターテイナーとして滞在している者が大半であるという傾向をあげることができよう。また、フィリピン国籍者についてはこのほかに相当数の超過滞在者が存在するといわれていて、97年1月の時点で約 4.3万人が日本でオーバーステイしているとみられている。

 

2.送り出し国側の事情  フィリピン

 @ 国の事情  政策としての労働者送り出し

フィリピンは、330年間のスペイン統治、日本の占領時代を間に挟んだ2度のアメリカの統治を経て、第2次大戦後の1946年に独立するまで、約400年の長きにわたって他国の植民地であったという歴史を持つ。そのため、これは東南アジア全体にいえることであるが、経済面では宗主国または先進工業国の一次産品供給地として位置づけられて発展し、特定の一次産品に特化するモノカルチュア経済となっていた。フィリピンは砂糖とココナツに特化しており、独立後は農業の多角化と近代化が進められ、加えて工業化による産業構造の転換が求められてきた。

現在でも、フィリピン経済の約3分の2は、漁業、農業、林業を主体とする第1次産業である。主産物は米で、マニラ麻、パイナップル、タバコ、サトウキビといったものが輸入品目の筆頭にあげられる。第2次産業である食品、繊維工業などは、現在急速に発展を遂げようとする途上にあり、リゾート開発などの第3次産業もこれからの発展が期待されている。しかし、97年のタイのバーツ暴落に端を発したアジア経済危機により、国内産業の経済発展にブレーキがかかった形になっている。

フィリピンでは、外貨獲得のために海外への出稼ぎを国策として奨励している。フィリピン政府は、専門の官庁を設置して、出稼ぎ労働者の奨励や保護にあたっている。海外への出稼ぎに関しては、労働雇用省(Ministry of Labor and Employment)とフィリピン海外労働オフィス、フィリピン海外雇用庁(Philippine Overseas Employment Administration)の三省庁が、関係法制や制度を定めて、雇用者のチェック、労働者の保護や厚生、技能訓練まで関与している(吉村、1999、69-70頁)。フィリピン政府は、労働者海外派遣政策は低迷するフィリピン経済を救う一時的な措置であるといっているが、49億ドルに上る海外出稼ぎ労働者のフィリピンへの送金は、フィリピン経済にとってもはや欠くことのできない大きな外貨収入になっている。

フィリピンにおける海外雇用促進政策は、国内の失業問題の解消、外貨獲得による国内経済の立て直し、新技術の導入の3つを目標としている。このうち失業問題の解消については、海外雇用の求職応募時に失業中だった者は契約労働者のうちの3割にすぎないことがわかっている。また、契約労働者の大半が男女ともに働き盛りの年齢かつ比較的高学歴であることを考えあわせると、ある程度の技能や学歴を備えた熟練労働者がよりよい雇用環境を求めて海外へ流出した傾向が強く、この政策が貧困層の失業対策になったとはいいがたい。むしろ、女性を中心に高等技術や専門知識をもつ者が海外へ出たことにより、「頭脳流出」という社会資本の損失がいわれている。また、海外移住労働者からの送金が外貨獲得の大きな手段となっていることは事実だが、海外への出稼ぎは経済再建に最も必要とされる青壮年の生産力を国外へ放出する結果となっており、この政策はむしろ国内経済の立て直しには逆効果であるといわれている。さらに、高学歴者の多い海外移住労働者が海外で実際に就く職業は、必ずしも彼らの技能や学歴に見合っているとはいえず、新技術の導入という政府の目標も達成されているとは言い難い。

 A フィリピン固有の海外出稼ぎ労働事情の背景

1986年から96年の10年間で、フィリピンの海外出稼ぎ者数は約491万人で、受け入れ国別にみると、サウジアラビアが最も多く44%、次いで香港10%、日本9%、アラブ首長国連邦5%、台湾4%、その他クウェート、シンガポールと続いている。海外で働くフィリピン人は、合計650万人(1996年末)、人口の9%、就業人口の21%にあたる人数に上る。

フィリピンの出稼ぎ労働者の特徴は、男性より女性が多いことであり、同様の傾向が、インドネシア、スリランカでもみられる。フィリピンの場合は、出稼ぎ労働者の80%が女性で、家政婦や看護婦、エンターテイナーといった仕事に従事している。男性の場合は建設労働者やエンジニアなどである。家政婦や建設労働者は中東、香港、シンガポールなどへ、看護婦やエンジニアなど技能を持った労働者はアメリカなどへ向かっている。(吉村、1999、69頁)

では、なぜフィリピンの海外出稼ぎは女性が多いのだろうか。その問いに対する伊藤の説明は次の通りである(伊藤、1992、303-315頁)。

東南アジア全体の傾向として、1970年代の農村から都市部への人口移動に伴い、女性の労働力参加が進んだ。その理由として、この地域で男女均分相続の制度や親族制度における双系性と相まって家父長制文化が相対的に弱かったこと、あるいは家計維持ならびに親の扶養における娘への貢献期待が強かったことがあげられている。また、同時期に都市部での雇用機会が拡大したため、女性の教育水準の高いフィリピンにおいては都市出身の女性は専門職・技術職へ進出し、農村出身者は学歴や技能をあまり問われない商業サービスの分野へ吸収されていった。更に多国籍企業の東南アジアへの進出により、低賃金に甘んじ、指先が器用かつ仕事が丁寧、規律に従順な若い女性が求められ、農村部から流入してきた若い女性がこれらの条件に最も合致していたことも、人口移動と若年女性の労働参加を促進した要因であった。

80年代からの国際的な労働力移動は、こうした国内の人口移動の延長線上に位置している。国外への労働力移動も資格・技能を問われないサービス雇用が主流である点は国内移動と同様である。しかし国際的移動の場合は、女性が学歴に見合った雇用を都市部において確保できず、資格や技能に見合わなくとも一般賃金水準が高い海外出稼ぎを選択することにより、経済的状況の改善を図ろうとする傾向が強い。

 B 出稼ぎ労働者個人の動機とその背景

出稼ぎ労働者自身の動機として、バレスカスは、海外移住の結果としての自分たち自身と家族の経済的・社会的地位の向上があげられるとしている(駒井編、1997、239-40頁)。同様に伊藤も、アジア人女性が国境を越えた出稼ぎを決意するとき、同胞男性と同様に、よりよい生活を求め、社会的上昇を果たしたいという人間的な欲求の存在を見いだしているためであり、アジア人女性たちが「性風俗」への就労に集中するのは、彼女らにほかの雇用機会が閉ざされていることの結果にすぎないという(伊藤、1992、294-295頁)。

フィリピンの人口は6861万人であるが、1996年現在で失業率は約11%、潜在失業者の存在も考慮した実質的な失業率は、22%にもなる(吉村、1999、69頁)。故国での賃金のよい恒常的な雇用が欠如しているため、海外移住は経済的に必要不可欠な選択肢となっている。

特にエンターテイナーとして来日するフィリピン人女性の動機は経済的なもので、家族の苦労を目の当たりにし、この「イサン・カヒッグ、イサン・トゥカ(isang kahig, isang tuka、フィリピノ語で「その日暮らし」の意)」から家族を救い出そうとしている。兄弟姉妹が4、5人いる大家族の出身者が多く、たいていは一番上か二番目で、弟妹たちの面倒を見ようとしている。両親や兄弟姉妹に楽な暮らしをさせたくて、外国行きを決意する。彼女たちは母国に仕事の口がないというが、多くの女性たちは来日以前にフィリピンで様々な仕事について大家族を助けてきた。問題は彼女たちの言うように「仕事がない」のではなく、不定期だったり給料が安いことだ。彼女たちの月給は575ペソから3000ペソ、日本円に換算すると2875円から1万5000円だという(バレスカス、1994、24-28頁)。こうした母国での収入ではとても大家族を養ってはいけないため、彼女たちは海外出稼ぎを決心する。

しかし、出稼ぎ先での虐待や暴行・強姦、賃金未払い、拘留や退去強制など、問題は山積している。問題はエンターテイナーとして海外に出たフィリピン人女性に限らない。母国の家族は、日本からの仕送りを当てにし彼女に依存する構造ができていく。働こうとしない家族が増え、海外から届くもの全てに満足している家族も多い(バレスカス、1994、122-123頁)。それでも欲望はとどまるところを知らず、そうした家族が家を改築し電化製品をそろえていくのを見て、近所の人々にとっても日本は憧れの地となっていく。

田巻も、若年の女性が兄弟姉妹や両親への経済援助のために海外に出稼ぎに出るという構図が、家族主義というべき相互扶助関係が強固なフィリピン文化と深く関係していると指摘している。また、成功したエンターテイナーたちが日本に比べてあまりにも低賃金な本国での就労を嫌って再度の日本行きを希望するようになること、その「成功」が出稼ぎに対する家族の依存心を高めるとともに、エンターテイナーを送り出そうとする家族を新たに作り出す点をあげ、海外出稼ぎに依存せざるを得ない構造が循環的に強められているとしている(田巻、1995、274-275頁)。

3.在日外国人への法的保護・社会保障

日本の社会保障制度は、憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という有名な生存権の理念に基づいている。しかしこの「国民」という言葉には、日本に居住する外国人は含まれないというのが通説となっている。ここでは、日本に居住する外国人には現在どの程度の社会保障が認められているのかをみていくことにする(社会保障研究所編、1995、11-16頁 および 移住労働者と連帯する全国ネットワーク、1999、1-10頁)。

  1. 社会保険

    健康保険、労災保険、雇用保険(失業保険)という主要な労働保険は、すべて制定当初から外国人労働者にも適用されていた。労働保険の中でも厚生年金保険は、制定時は国籍要件を設けて外国人への適用を排除していたが、戦後のGHQからの指令と、それを受けた勅令によって、適用対象とされた。

    健康保険について加入は全て事業主の責任で行われ、在留資格の確認は行われていない。ただし社会保険庁は、不法就労者は入管法の措置により雇用関係が解消されることになるので、健康保険は適用されないとの解釈を崩していない。

    これに対し、国民年金、国民健康保険といった一般国民を対象とする社会保険は、制定当初は国籍要件を設けて、外国人を排除していた。この状態は戦後も長く続いたが、国民年金は、1982年の「難民の地位に関する条約」(以下、難民条約とする)に日本が加入したことによって、国籍要件が撤廃され、また、国民健康保険は、86年の改正によって、1年以上継続居住する外国人はその市町村の国民健康保険の被保険者とされた。

    国民健康保険について、厚生省は92年の通達により、その対象を外国人登録者で、入国当初の在留期間が1年以上あるいはその見込みがある者に限定している。この結果、大半の外国人が国保加入から締め出される結果となり、通知上の拘束は今でも多くの自治体を拘束しているが、いくつかの自治体では、日本人男性の子供を養育しているオーバーステイの外国人女性に国民保険証を交付していた事例がある。しかしその一方で、定住者ビザのある労働者に対し、社会保険に入れることを理由として健康保険未加入外国人の国保資格を拒む自治体の例も報告されている。

    なお、日本人男性の妻等を中心に、社会保険の被扶養者となっているケースは多く存在する。

  2. 社会手当

    児童扶養手当、特別児童扶養手当、児童手当については、国民年金と同様、制定時には外国人を排除していたのが、82年の難民条約への加入を契機に適用されるようになった。

  3. 公的扶助

    生活保護法については、1946年の旧生活保護法は外国人をも適用対象としていた。しかし、受給の権利生が明確となった現行法においてはそのことを理由として排除され、それが今日まで及んでいる。外国人を医療制度から閉め出すきっかけとなったのは、まさにこの最低限度の生存を保障すべき制度である現行生活保護法の運用によってであるといえる。

    しかし現場では、行政通達により行政措置として生活保護に準じた保護を行うこととされて今日に至っている。外国人母子世帯では、子供が日本国籍で親がオーバーステイの場合、子供に対してのみ生活・医療扶助が行われている例がいくつかある。自治体の苦肉の策といえるが、子供のみの生活費支給では、同法10条にある世帯単位の保護の原則に反している上、親が病気等で働けない場合には最低基準以下の生活が強いられるため、充分なものとは言い難い。

  4. 児童福祉法

    生活保護・国民健康保険からの排除以降、入院助産制度は、外国人にも適用する自治体と排除する自治体があり、これに対して厚生省は態度を明確にしていなかったが、95年に行われたNGOとの交渉の席上で、児童福祉法には国籍条項がなく、在留資格の有無に関わらず適用可能との見解を示した。しかし個別の判断は自治体に委ねられており、適用を排除しようとする自治体もある。育成医療に対しても同様のことがいえる。

    保育園入所に関しては、比較的拒まれた事例は少ないようである。

  5. 母子保健法

母子健康手帳に関しては、自治体によって対応がまちまちである。比較的多いのは、母子手帳は交付するが附属の妊産婦検診の無料券を渡さないという事例である。これらの診察券は自治体独自の予算措置で行っているが、根拠のない不平等な取り扱いである。

母子手帳の交付申請は居住地の保健所で、届出制なので外国人登録は不要であるが、自治体によっては妊娠の証明を求めるところもある。

日本の社会保障制度は、国籍条項が廃止され、外国人にも等しく適用されるかに見える。しかし実際は、適用にあたって外国人の日本国内での居住関係を用件としているものが多いために、現在のところ、とくに超過滞在者は未だ適用範囲外になっているものが多い。医療保険や生活保護に準じた措置(医療扶助など)の不適用は、超過滞在者にとって、病気が死に直結する危険性を孕んでいることを物語っている。

更に、本来、使用者の責任において適用しなければならない厚生年金や健康保険などの職域保険が、不安定な雇用関係のもとで外国人労働者に適用されないケースも多い。これも特に超過滞在者に多く見られる事例といえる。

4.国際結婚と外国人の定住化

日本に「定住」する、もしくは居住が長期化する傾向にあるニューカマーズの分類のひとつに、日本人との結婚により日本に居住することになった人々の存在があげられる。このカテゴリーの人々は、ほとんどが「日本人の配偶者等」の在留資格で日本に居住する。

日本における国際結婚は、1989年以降、急激な増加傾向にある。厚生省人口動態統計によると、1970年代には年間平均6000件(全体の 0.7%)であった国際結婚は、83年には1万件を突破し、急増した89年には年間2万2000件(全体の 3.2%)にまで跳ね上がる。1997年現在は2万8000件、全体の 3.6%を占めるまでになっている。

組み合わせ別に見ると、日本人男性と外国人女性のカップルが国際結婚の6割を占めている。 97年には外国籍妻の国籍は、中国籍32%、フィリピン籍29%、韓国・朝鮮籍21%、タイ籍8%と続く。フィリピン籍に関しては、91年までは「その他の国」に分類されており、国別の数字は92年以降のものしかないが、その92年から前年の96年まで、日本人男性とフィリピン人女性の結婚件数の割合は、日本人男性と外国人女性のカップルの30%を一貫して上回っており、他の国を上回りつづけていた。同じく92年から「その他の国」の分類より分離してデータを取られているタイも、日本人男性との結婚件数の増加が指摘されており、89年から見られる国際結婚の急激な増加は、特に日本人男性とニューカマーズであるアジア系女性との婚姻件数の増加が要因であることは明らかである。

妻が外国籍のケースについて、結婚のきっかけについて、来日経緯から次のように分類している。

  1. 現地出会い型

    「普通の」国際交流をきっかけとする結婚。日本人男性が海外赴任中あるいは旅行中に出会い、結婚したケース。

  2. 国内出会い型

    エンターテイナーとして日本に出稼ぎに来ていた女性と「オミセ」などで出会い、結婚に至ったケース。

  3. 行政仲介型

    行政の仲介によるお見合いから結婚したケース。農村部での固有のケースである。

  4. ブローカー仲介型

「日本人花嫁」としてブローカーによって斡旋され、結婚したケース。これも農村部に多い。

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